くじらがいっぱい

消ゴムで、ロゴスタンプをつくっているけれど、なかなか好きなかんじにならず。。
気がついたら、ノートの上をくじらがグッピーみたいに群れていた。
バイトの方々、来てくれたけれど、ケーキ渡すのわすれてしまった。。
千家十職×みんぱく

大阪民族博物館で、千家十職の展示がされています。
千家十職とは、千利休のころから現在まで代々うけつがれた、茶道具を扱う十の職家のことで、
塗師や釜師、指物師、袋師など。
民博の大部分は、収蔵庫になっているようで、そのなかから各家の当代が、ひっかかるものをいくつか選び、それらに触発されて新たにつくる、というおもしろい試み。
収蔵されているものは、さすが民族博物館。
世界中のあやしいものがいっぱい。
それらは、芸術のためにつくられたものでなく、生活の中で、必要で生まれたもの、儀式としてつかわれたもの。
それが、うつくしいのだよね〜。うつくしいっておもうのはなんでなんだろか。
芸術ってなんなんだろか。
芸術ってことばや感覚がうまれたのは、わりと最近のことでしょ。
そのもっともっとまえから、ひとはものをつくっていているのだよね。
もっと五感をとぎすませれば。人ってすごいおもしろい。
インフルエンザの影響で、会期がのびて14日まで開催しています。
おかげで見ることができました。
菜食にゆれる
わたしはベジタリアンではないのだけれど、
なんとなく、肉や卵を買わずに過ごしていて、
今日は、ほんとに久しぶりに、卵を買った。数えてみたら8ヶ月ぶりだ。
バイトのひとたちが明日、お店に遊びにきてくれるというから、おもいつきで、おやつをつくろうとおもってね。(先週きてくれた文○○〜の三人衆、思いつかなかったぁ。ごめんね)
なにつくろうか考える余裕がなくて、前に何度かつくったことのあるレモンのパウンドケーキにした。卵入り。
ひさしぶりの卵ちゃん、うまく割れずぐちゃっとなった。
インドへ行くたびに、なにかが変わっているのか、
あたまでは、いままでの生活道理にたべたいとおもっても、からだが、なにかもやもやが、これは罪悪感か、なんなのかよくわからないけれど、もやもやしているので、そこでストップ。なんかいままでよりたのしく味わえない。
だからいつのまにか、うちでは菜食。気がつけば肉も卵も買っていなかったわけ。
でも、貰い物はうれしくいただきたい。実家は肉食だし。
あんなに卵が大好きだったのにな。
卵=幸せ おいしいオムライスは至福の時とおもっていたのに。
こういう感覚も、日本で生活していく間に、いつのまにか消えていくのだろうか。
どっちでもいいけれど。
ベジタリアンになるとからだが清々しくていいだろなとおもう。
からだがきめていくとおもうから、放っておく。
でもね、密かに、飲食店をつくりたいなぁとおもっているので
そこでは方向性があったほうがいいのだろな、と、
自転車に乗りながら考えたりもしています。
わたし自身は、完全なベジはないだろな。
このまえの旅で、ムスリムの友だちがいっぱいできて、彼らのうちでなんどかごはんをいただいた。
彼らは肉をたべる。羊とか、鶏とか、魚も。
敬虔なヒンドゥー教徒のナレンドラさんに出会ってから、ベジタリアンを意識していたのに、ムスリムの彼らに出会ってから、無理だな、とおもった。
また行きたいし、一生のつきあいだとおもいたいし。
できるならば、どこへいっても、なにをたべても生きていけるひとになりたい、ともおもう。
その地域の人と同じものをたべる。虫とかでも(まだ抵抗はあるけれど)
将来子どもができても、そうであってほしいなとおもう。
なんて考えたら、ベジはむりではないか。
ベジでない人がつくったベジレストランは、説得力ないよなぁ。

れもんの皮をすりおろしたら、
色も大きさも手触りも、テニスボールそっくり。
なんとなく、肉や卵を買わずに過ごしていて、
今日は、ほんとに久しぶりに、卵を買った。数えてみたら8ヶ月ぶりだ。
バイトのひとたちが明日、お店に遊びにきてくれるというから、おもいつきで、おやつをつくろうとおもってね。(先週きてくれた文○○〜の三人衆、思いつかなかったぁ。ごめんね)
なにつくろうか考える余裕がなくて、前に何度かつくったことのあるレモンのパウンドケーキにした。卵入り。
ひさしぶりの卵ちゃん、うまく割れずぐちゃっとなった。
インドへ行くたびに、なにかが変わっているのか、
あたまでは、いままでの生活道理にたべたいとおもっても、からだが、なにかもやもやが、これは罪悪感か、なんなのかよくわからないけれど、もやもやしているので、そこでストップ。なんかいままでよりたのしく味わえない。
だからいつのまにか、うちでは菜食。気がつけば肉も卵も買っていなかったわけ。
でも、貰い物はうれしくいただきたい。実家は肉食だし。
あんなに卵が大好きだったのにな。
卵=幸せ おいしいオムライスは至福の時とおもっていたのに。
こういう感覚も、日本で生活していく間に、いつのまにか消えていくのだろうか。
どっちでもいいけれど。
ベジタリアンになるとからだが清々しくていいだろなとおもう。
からだがきめていくとおもうから、放っておく。
でもね、密かに、飲食店をつくりたいなぁとおもっているので
そこでは方向性があったほうがいいのだろな、と、
自転車に乗りながら考えたりもしています。
わたし自身は、完全なベジはないだろな。
このまえの旅で、ムスリムの友だちがいっぱいできて、彼らのうちでなんどかごはんをいただいた。
彼らは肉をたべる。羊とか、鶏とか、魚も。
敬虔なヒンドゥー教徒のナレンドラさんに出会ってから、ベジタリアンを意識していたのに、ムスリムの彼らに出会ってから、無理だな、とおもった。
また行きたいし、一生のつきあいだとおもいたいし。
できるならば、どこへいっても、なにをたべても生きていけるひとになりたい、ともおもう。
その地域の人と同じものをたべる。虫とかでも(まだ抵抗はあるけれど)
将来子どもができても、そうであってほしいなとおもう。
なんて考えたら、ベジはむりではないか。
ベジでない人がつくったベジレストランは、説得力ないよなぁ。

れもんの皮をすりおろしたら、
色も大きさも手触りも、テニスボールそっくり。
